年度別受賞作品
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マーチン00028EC

第03回 1999年度 受賞作品
優秀賞作品
作者名:松田一哉
所属企業:ロックイン川崎店

記事(紹介文)


 初夏の気配が近づいたある日のことだった。50歳前後、髪に白いものが混じっている紳士が一心不乱にギターを見つめていた。何か思いつめたような感じが後ろ姿から漂ってきた。「何かお探しですか」と尋ねると、「あのギターを見せてもらえますか」と言った。その紳士の指先にはマーチンの00028ECがあった。「どうぞお手に取って弾いてみてください」と言い、僕は素早くチューニングしてギターを渡した。
 00028ECに興味を持つ人のほとんどはクラプトンのファンである。僕が「クラプトンをお聞きになるんですか」と尋ねると、その紳士は「ええ、まあ」と言い、言葉を濁した。紳士がつま弾くフレーズに耳を傾けると、坂本九の『上を向いて歩こう』『あの素晴らしい愛をもう一度』が流れてきた。3フィンガーの器用なアルペジオをつま弾いている。この2曲は僕も大好きだったので「日本のフォーク、ポップスがお好きなのですか?」と尋ねてみた。すると紳士は「ええ、まあ、ちょっとね」とまた言葉を濁した。
 その後、10分くらい試奏をして「いいギターですね」と言い、ギターを僕に渡した。結局クラプトンの曲は1曲も弾かず、その紳士は「また見に来ます。どうも」と言って去っていった。接客をして売れなかった時はいつもネガティブな気持ちになるのだが、なぜかその紳士には不思議とそのような気持ちが起こらなかった。
それから半年。カウンターにいた僕の目にあの紳士の姿が映った。またじっとマーチンギターを見つめていた。「いらっしゃいませ。先日マーチンをご覧になっていた方では…」と言うと、「先日はどうも」とその紳士は言い、「済まんがまたあのマーチン、見せてくれるかね」と言う。僕は00028ECを手渡した。
おもむろに紳士は、ボブ・ディランの『くよくよするなよ』をまた見事な3フィンガーで弾いて見せた。そして続けてクラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン』をこれも見事に弾いて見せた。 それまで1曲もクラプトンの曲を弾かなかったが、やはりこの紳士はファンなのだと思った。何よりタッチが絶品で、ハートに染み込む演奏とはこういうものかと思わされてしまった。
 弾き終わって、思わず僕が「お上手ですね」と声をかけると「いや、息子が大好きな曲でね、何度も聴かされちゃって…。僕もクラプトンを聴いていましたが、最近のはあまり聞いてなくてね。でもこの曲は不思議と耳に残ったもので」。そして、「じゃあ、これをもらおうかな」と言った。
会計を済ませ、「ありがとうございます。何かありましたらまたご来店下さい。お待ちしております」と頭を下げた僕に紳士は、「いやあ、さっきの曲のことだけど、実は今年の春に息子を亡くしてね、しばらくは、息子を思い出すのであの曲は聞きたくなかったんだよ。でもこの00028ECであの曲を弾いていると、何だかあの子がどっかで聞いてくれているような気がしてね。いや、済まんね。突然こんなこと話しちまって。それじゃあ、世話になったね」と言い去っていった。
その後ろ姿を見ながら、紳士の演奏がなぜ僕の胸を打ったのかが解る気がした。音楽はウソをつかない、いやつけない。紳士の心の奥底にある息子さんへの気持ちがギターに表れたのだ。それが僕の胸へとグサリと刺さったのだと感じた。
その夜、僕も家でギターをつま弾いてみた。あの紳士の姿を思いながら。それがブルースなのかもしれない。形態ではなく、スピリット。それこそが人の心を打つ。それだけ……。

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